監督回想録

2016.07.17

【第2話】 「平和の火」は、かつて「憎しみの火」だった。

原爆の残り火は、福岡県八女市星野村で70年間、燃え続けています。

星野村 平和の塔

そもそも、なぜ、広島原爆の残り火が、遠く福岡県にあるのか。

1945年の夏にさかのぼります。
星野村出身の山本達夫さんは、徴兵され、広島近くの軍
隊の部隊にいました。
8月6日、任務で汽車で移動しているときでした。 午前8時15分、白い光が車中を貫き、大地を揺るがす途轍もない爆弾音が。広島原爆投下の瞬間でした。

山本さんは広島で書店を営む叔父の安否が気になり、広島市内に向け歩き始めました。
男女の区別もつかないほど焼けただれ逃げ惑う人々、黒焦げの死体、断末魔のうめき声。
山本さんが見たのは地獄でした。

山本さんは、父親代わりに自分を育て可愛がってくれた叔父を幾日も探しました。しかし何も見つかりません。広島を去る日、くすぶりの中でチロチロ燃えている小さな炎を見つけました。遺骨代わりに、その火をカイロに入れ、福岡県に持ち帰ったのです。
山本さんは、仏壇にその火を灯し、いろりや火鉢に移しながら、なんと23年間もその火種を守り続けました。

なぜ、火を燃やし続けるのか、山本さんは妻や子どもたちにさえ語ることはありませんでした。
「この火でアメリカに復讐してやる」
今でこそ、「平和の火」と呼ばれてますが、山本さんにとってそれは「憎しみの火」だったのです。
それほどの地獄を体験したのです。

20年以上たったある日のこと。もう汗ばむ季節なのに、こたつに火が入っているのを、そのときたまたま山本さんの家に茶の取材に来ていた新聞記者が不審に思いました。山本さんは、ずっと秘めていた長年の思いを、この新聞記者にぶちまけました。こうして、「原爆の残り火」が世間に知られることになります。

星野村長の耳にも入り、村が山本さんを説得して、「原爆の残り火」は世界平和を願う供養の火として、星野村が建立した「平和の塔」に灯されることになりました。

山本さんは友人に打ち明けました。
「一言も俺の話を聞いてくれない」
怒りや憎しみや悲しみを誰も受け止めてくれないことに悩んでいたといいます。
報復を誓った火が、世界平和の祈りの火になることに、葛藤があったのです。

原爆の残り火は全国各地に分けられるようになり、広がっていきました。
山本さんは、村で静かに暮らし続け、火について語ることはありせんでした。

時は過ぎ、山本さんが80歳になったときのことです。
自分から平和の大切さを訴えるようになったのです。

「戦争は絶対にせんぞと、いかなることがあろうとも戦争だけはせんという考えだけは、皆さんに持ってもらい、それを皆さんの、あんたたちのこどもから孫から伝えてもらいたい」

山本さんは、亡くなりました。

山本さんが変わったのはなぜなのか?
息子さんが遺品を整理している時のことです。
「全面保存のこと」と書かれた袋の中には、戦争や核兵器について書かれた記事が大切にしまわれていました。
そして多くの手紙が見つかりました。
原爆の残り火を、子どもたちへ伝えたいという小学校の先生からの手紙。
原爆の残り火をアメリカに守っていき、核廃絶を訴えたという手紙。
多くの人たちの願いを受け止め、自分が変わっていった様子を、山本さんは友人に打ち明けていました。
「一生涯、叔父さんやいろんな人を殺された、そのことに対する怒りや悲しみが消えない、想いつづけている、しかし、それを解決していくために、暴力や戦争で報復したって絶対問題は解決できない、同じ苦しみや悲しみをアメリカ人に与えるだけだ。それはやっちゃいけないということは、おれの原点だ。これが火の心だと、最後の最後になって言い出してきていたのかなあ」

山本さんが、子どもたちに最後に伝えたメッセージです。

「この地球上に住む動物で、同類同士で殺し合いをするのは、ただ人間だけであると。何と愚かなことか、そういうことはしないようにお互い努力しましょう。
頼みはあんたたち、今日はあんたたちに頼みに来たんだ。
約束してくれと 戦争はせん、という考えをみんなが守ってくれ」
(つづく)


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